うん日のへにより

もやしと豚肉を炒めたやつ

関西も世界地図でいったら極東

 こんばんは。風が強いです。なんか怖いです。風の音が怖いので耳を塞ぎながらコンビニへ行きました。酒げと。

 コンビニのレジ打ちをしている時に、お客さんが男性だと怖いことがある。そのお客さんから、ちんたらしてるとイライラします、という感じがしたら怖い。その場合怖くて作業が遅くなるとかしてしまう。逆にいくら時間かけてもいいよと思ってくれた方がよほどリラックスして早く作業が行える。

 そんなことをレジに並びながら思った。

 思えばレジ以外にも条件付きの優しさが怖い。条件から外れたら怒りが待っているし、僕は恐らく条件から外れてしまう。

 それに自分自身が条件付きの優しさを持つのも抵抗がある。どこまでも条件を緩めていって、それでもなおいいじゃないかという感じでありたい。

 

 歳も歳だし自立していておかしくない、というか普通だ。

 自立。これはなんだ。

 自立していなければ他人の助けを受けることになる。うん。まあそれでもいいといえばいい。

 いや、他人の助けが無いと生きていけない姿は格好悪いよ。それも感覚的に分かる。

 そこで僕が引っかかっていたのが「格好悪いという理由でそれを拒んでもいいのか」ということだ。どこに引っかかっているのだという意見は分かる。だけど僕にとってはそれが大きな疑問だった。

 僕は過去に、自分にとってとてつもなく格好悪いと思っていることを理性によって抑えて行ってしまったことがある。その時に格好悪いという感覚を行動の動機から外してしまったらしい。最近そのことを正面から受けとめて、やはりあれはしたくなかったし、それならばするべきではなかったと思った。

 結局格好悪いと思ってることを進んで行う人なんていないのだ。もしそれを行うのであればそれ相応の他の理由があるのだろう。だから他の理由が特に無いのなら拒むべきだろう。べきだろうというか拒むものだろう。

 まあとにかく自分の心を無視して生きるのはもう懲り懲りだ。

 

 しかし、格好悪いということだけで自立しようと思えるかは分からない。それは僕が理屈っぽいからかもしれない。それとも誰かを否定したくないからか。

 自立していないのを格好悪いとすれば、自立していない人を格好悪いと思うことになる。だけどそうは思いたくない。

 

 これはあれだけど、人が書いておいたものを死後他の人が発表するのはどうなんだろう。あくまで個人的なものだからこそ書いていた場合もあるわけで、それを個人的なものから公的なものにしてしまうのは著者の意思が無視されている気もする。

 

 うんこ。また明日考えよう。im tired